コラム

「天才」とは、自分を信じる努力の人

直感を信じ、努力を重ね、自分の可能性を愚直に追い求める。「天才」とは、才能の有無や非凡さに甘んじることなく、継続した努力の後に結果を残す人だと思いますが、皆さんはどう考えるでしょうか。

ある少年を紹介します。その少年は算数の授業中には「1+1=2」と教えられても鵜呑みにすることができず、「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」と質問をしたり、英語の授業中にも、「A(エー)はどうしてP(ピー)と呼ばないの?」と質問するといった具合で、授業中には事あるごとに「Why? (なぜ?)」を連発して、先生を困らせたといいます。

彼はかの有名なアメリカの発明家トーマス・エジソンで、この話は彼の幼少期の逸話です。このような子どもが同じクラスにいたら、「先生の言うことだから、そのまま聞いていればいいのに」「面倒なやつだな」と思う人がいることでしょう。しかし、先生の話を鵜呑みにせず、常に自分の中に疑問を持ち続け、それを解決しようと質問をする彼の姿勢は、勉強をすることの本質に触れているように思います。エジソンはそれまでの優秀な大学を出た能力の高い人たちとは違い、立派な学校を出てはいませんが、自分の努力で身に付けた科学知識で様々な発明をし、生涯に渡り1300件の発明と2332件という膨大な数の特許を取得しました。「Why? (なぜ?)」の姿勢を崩さす、根気強く努力を続けた事によって、彼は後に「発明王」と呼ばれ、過去の「天才」と言われる偉人たちと肩を並べることができたのでしょう。

勉強という言葉を聞くと、皆さんはどういうイメージが頭に浮かぶでしょうか。生徒である子どもであれば、先生の話を聴き、出された問題を解き、親に言われるから良い成績を取らなくてはいけない、などあまり良いイメージはもっていないかもしれません。

指導要領に沿って学習することや、点数化することで自分の習熟度を簡単にメジャーリングすることは可能ですし、比較することによって、自分の至らなさに気づくことはよくあります。しかし、そもそも勉強というのは、他の人より成績が良かったから自分は凄いのだ、といった他人を基準にし、比較しながらするものではありません。勉強(学ぶこと)とは、座学に限らず、自分ができない事をできるようにし、不可能だったことを可能にしていくこと。そのための第1歩なのです。

「まだ習っていない漢字だから、書けない。」「やり方を習っていないから、解けない。」という生徒の声。教わっていないから、できないままでも平気でいる子供達は少なくありません。日本では中学生までは学校という機関が子どもたちに勉強を教えることが義務になっています。そのため、こんな言葉が生徒の口から出れば、教える立場の先生たちは焦ってしまうかもしれません。しかし義務教育を終え、ましてや社会に出てそんな事を言ったとしても、相手からは「…それで?」といった態度しか返ってこないでしょう。社会においては、何も知らないままでいるなら勉強をしてスキルを身につけるか、そのままその場を去るしかないのです。

自分が得意なものも苦手なものも、得意だからここまでで良い、苦手で分からないのだから、何をやっても無駄だろう、と思ってそのままにするのではなく、得意だからこそどんどん難しいものにチャレンジをしながら実力を伸ばし、苦手だからこそ得意な人よりも時間を掛けなければ結果が出せないことを認め、しっかりと物事に取り組むことで、その経験も含め、それら全てがあなたの力になるのです。自分がどんな人になりたいか、そんな事をもし思う時があるなら、自分に何が足りないかを検証し、弱点を克服し、その結果を手に掴むまで、根気強く努力を続けましょう。自分ができない事をできるようにしていくための一歩一歩の努力があって初めて、道が開けていくのです。

Genius is one percent inspiration, 99 percent perspiration.
「天才は1%のひらめきと99%の努力」Thomas Alva Edison

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